

弱者の己が強者に打ち勝つメソッド
弱者の戦略
弱者の己が
強者に打ち勝つメソッド
弱者の戦略とは文字通り、「弱者」が「強者」と戦うための戦略のことです。
私は、記憶力も悪く、体力もない、まさに「弱者」でした。その私が強者に負けないどころか、打ち勝ってしまうほどの成果を上げることができたのは、一体なぜでしょうか?
夢への第一歩:上智大学への挑戦
アメリカに行って大社長になる、という大きな夢のためには外国語の有名な大学に入る必要があると私は考えました。そこで、目標としたのが「上智大学」でした。
しかし、当時の上智大学に入るためには英語がクラスで一番でないと難しいようなレベルでした。私の英語の成績はそこまで良くありません。担当の先生には「上智は無理だ」と言われるほどでした。
しかし、夢の実現のためにどうしても上智大学に入学する必要があった私は、あらゆることを調べ、帰国子女向けの第三言語での受験という可能性を見つけ出しました。そして私はドイツ語での受験を経て、不可能と言われた上智大学への入学を見事に果たしたのでした。
次なる目標:海外留学への挑戦
そして、無事に上智大学への入学を果たした私の次の目標は「海外留学」でした。自費での留学が難しかった私は「ドイツ語スピーチコンテスト」の1位を取ることで、ドイツへの留学の切符を手に入れることを目指しました。しかし、結果は2位でした。
新たな戦略:「ヒッチハイクで北極を目指す」
そこで私が次にとった行動は「ヒッチハイクで北極を目指す」ことです。船でロシアへ渡った私はシベリア鉄道に乗り、欧州をヒッチハイクで渡り歩く計画を立てました。
実際にやってみると、ヒッチハイクで私は全く拾ってもらうことができませんでした。
その頃、ヒッチハイカーには女性もいれば、もちろん欧米人もいました。彼らは女性であることや、英語を話せるという無言で伝わるアイデンティティを発しており、どう見ても見窄らしいアジアの男子学生の私よりも先に車に乗せてもらえるのです。
「有名人戦略」でヒッチハイク競争に勝つ
ここでも私は考えに考えて「有名人になれば、彼・彼女たちよりも先に拾ってもらえる」ということに思い当たり、近くの新聞社を片っ端から尋ね「私を記事にして欲しい」と頼み込みました。そしてサンデフィヨルドという片田舎の朝刊に私の記事が掲載されました。
その日からは別世界のようで、ピックアップ競争は連戦連勝、「我が家に泊まっていけ」とのお誘いが増えすぎて困るほどでした。
ヒッチハイクが生んだ「異例の就職活動」
そして帰国後の就職活動でも信じられないことが起きました。当時文系では人気1位の「三菱商事」の筆記試験が免除され、いきなり役員面接で内定をいただきました。
最終的に入社を果たした松下電器産業(現・パナソニック)からは、海外駐在員含みの内定をいただくことができました。これらは全て、海外24カ国をヒッチハイクで渡り歩いた、というエピソードがその力を発揮した結果でした。
「弱者の戦略」が切り拓いた道
このような例は枚挙にいとまがないほど沢山ありますが、成績が芳しくない私、つまりは弱者の私が、上智大学に合格し、ヒッチハイク競争に勝ち、誰もが羨む大手企業からの内定を勝ち取ったことは、まさに戦略の勝利だと私は思っています。
これらの弱者の戦略がどうやって生まれてきたか、それは「絶対に達成するぞ」「なんとしてでも手に入れるぞ」という情熱が、強者をも打ち負かしてしまう勝ち筋を私に見つけさせたのだと思います。