
大坂靖彦とは
ヒストリー
第1章
大坂靖彦 浜松市で生まれる

太平洋戦争中の昭和19年、
浜松市で生まれた。
浜松市での記憶はほぼありません。父・朗の勤務先の飛行場が空襲で焼かれ、呉服屋の娘だった母・嘉代子の故郷、香川県長尾町(現さぬき市)に移り住んだためです。
両親の性格は対照的でした。無線技士の父は商売っ気がなく、技術者の道をひた向きに歩みました。テープレコーダーを手作りするほどで、従業員が5人あまりの会社に全国から注文が舞い込みました。
第2章
弱者の戦略、
ドイツとの出会い

独語で受験し上智に合格
高校1年生になり、進学先の大学を見定める中、外国人教員や留学生が多数在籍する上智大学が、海外に憧れる私の目に留まりました。そこで過去問を取り寄せますが、肝心の英語で全く歯が立ちません。
ただ、上智大学は帰国子女向けに英語以外での受験が可能で、英語より難易度は低めとされていました。幸い、大手前高校では、ドイツ語が堪能な釜下晃先生の授業を希望者は受けることができ、なんとか上智大学 ドイツ科専攻を合格することができました。

精神力鍛えた無銭旅行
大学在学中に何としてでも憧れの海外に行きたい。しかし、私が大学2年生になった昭和39年(1964年)、日本は観光目的の海外旅行が解禁になったばかりで、今のように気軽に行ける状況ではありませんでした。パック旅行の代金は大卒初任給の何倍もする時代で、学生には手が出ません。
大学の推薦留学やスピーチコンテストに優勝してドイツ旅行も計画しましたが挫折、しかし、それでも夢を諦めず、ヒッチハイクでヨーロッパを回る計画を決行しました。

ドイツで強制送還の危機
お金もないヒッチハイクの旅行中、西ドイツの田舎町、ライン川付近でのことです。とっぷりと日が暮れ、力なくさまよう私は勇気を振り絞りある一家の窓をノックしました。テーブルを囲む6人家族全員の視線が一気に集まり、疲れ切った私は引きつった笑顔でドイツ語で「日本のヤスヒコだよ」と、手を振りました。日本から文通をしていた文通相手の家にやっと辿り着いたのです。
「本当にきたぞ! 早く入れ」。けげんな表情が一斉に驚きの笑顔に変わり、手招くドイツ人夫婦らに導かれるまま、明るいリビングに足を踏み入れました。
そこでは本当によくしてもらい、これが後のドイツワイン輸入に繋がっていきます。

ヒッチハイクを成功させるため、
北欧の新聞へ
ヒッチハイカーの暗黙のルールでは先に待つ人間が優先ですが、実情は違います。何時間も後にきた女性が次々と拾われ、ドイツのハンブルクでは6時間も待ちぼうけを食らいました。
敗因はドライバーへの情報不足です。女性は一緒にいれば楽しい、欧米人は言葉は通じる。そして私は「その他アジア人」に含まれ、助手席に乗せたいランキングの圏外なのです。
この序列を何とかしようと、片っ端に地元の新聞社に自分を売り込みました。見向きもしないドライバーも、記事になればこぞって私を乗せたがるはずです。なんとか一つの新聞に載ることができ、それからはヒッチハイクに困ることはなくなりました。
後日、50年後にその新聞社を訪ね、同じ場所で撮影もしました。
第3章
松下電器でのドイツ駐在

松下電器で西ドイツ駐在
一般人が観光目的で海外に行けるようになって間もなくの時期に、1年間の海外ヒッチハイク旅行は強烈なインパクトでした。帰国後、地元中学校やライオンズクラブから講演が舞い込む始末で、まさか私がと笑ってしまいました。
昭和43年(1968年)新卒の就職活動では、当時の文系人気1位の三菱商事の筆記試験が免除され、いきなり役員面接です。司会者は我が息子を紹介するように「大坂君は欧州24カ国をヒッチハイクして」などと褒めちぎるのです。面接前から受かったかな、なんて気分に浸っていました。
人生戦略の考えで、語学が達者な者が多い商社ではなく、海外赴任のチャンスが舞い込んでくる可能性が高い松下電機を選び、見事西ドイツ駐在を獲得しました。

西ドイツでの人生の師との2年間
西ドイツでは、古いビルの3フロアを借りたハンブルク駐在所は精鋭ぞろいで、後に松下の副社長になり、さらにWOWOW再建で大成功を収めた佐久間昇二さんがいました。深い洞察力があり、大胆さをそなえる半面、情にも厚く、誰からも尊敬されていました。
佐久間さんとの思い出は語り尽くせません。例えば、提携先のフィリップスの専用機に2人で乗り込み、オランダの本社に出張したことです。ドイツ、スイス、オーストリアを中心に乾電池の市場調査など、佐久間さんに叱咤(しった)激励されながらも、社会人のスタートを切れたのは幸運でした。

松下電機退社後、家業を継ぐも地獄の日々
世界最大級の産業機械見本市「ハノーバーメッセ」での出展準備など西ドイツ駐在は達成感がありました。しかし、それ以上に痛感したのは、周囲との能力の違いです。私なりに一生懸命に背伸びしましたが、体力的にも精神的にも限界が近づいていました。
松下での将来を考えた時、ゆくゆくは再び駐在員となるでしょう。その期待に応え、重圧に耐えられるか。戦略を練るのが得意な私は、50点の実力を満点に見せかけ、一定の評価を得ていましたが、実態は違ったのです。
自分の夢を叶えていくのは、松下電気ではないと考え、一度四国に戻り家業を継ぐ決断をしました。
第4章
香川の家業の家電店での
再出発

訴訟問題を逆手に飛躍
大坂屋では、非効率な訪問販売を続けながら新店計画を温めました。しかし、リスクを冒す理由がないと両親から却下され続けますが、3年で社員と売上高を倍増させることを条件に新店舗出店を認めてくれました。
出店地は徳島との県境の香川県大内町(現東かがわ市)に決めましたが、電機商業組合による猛烈な反対運動に直面します。近隣の電器屋に迷惑がかかるという理由に全く納得できません。組合幹部に「私は故郷の香川に戻り、家業を継いだ。皆さんは我が子の挑戦を応援できないのか」と詰め寄りました。
壁を突破し、発案から3年もかかりやっと昭和50年(1975年)に開店したものの、4日後に客足がパタッと止まります。店名の「大坂屋」を法律違反だと指摘する内容証明が同業から届き、同じ内容の真っ赤なビラがばらまかれ、店を閉めざるを得ませんでした。
しかし、それでも私は諦めず、店が閉まっていても社員と研修をしたり訪問営業をしたりして、「店が営業できなくても社員が活き活きしている」と同業や周囲に驚かれました。この反骨精神が、会社の業績を伸ばしていくことになりました。

人力で挑んだ、松下系列店としての商い
安売りを武器とする家電量販店はメーカーからのリベート(販売奨励金)で利益を詰み上げていたようです。一方、系列店の我々は松下電器産業(現パナソニック)製品しか販売できず、ブランド毀損防止を理由に売値は大幅には下げられません。品ぞろえに価格競争、どちらも勝ち目はありません。
松下を頂点とする数万の系列店は何を求められていたのか。黙っているだけでは来ないお客様を朝早くから訪れ、買ってくださいと頼み込み、すぐにお届けする、という「人力」がすべての究極の体力勝負です。
松下ブランドと店の信用だけが頼りですが、やっとの思いで売った商品がもう廃番ということも。どうにもならない悔しさは一度ではなく、手持ちの現金もなかなか蓄えられません。

松下系脱退、マツヤFCに
当時はまだ大手家電メーカーが絶大な力を持っていた時代です。しかも四国は「松下王国」と称されるほど松下の影響力が強い地域です。ところが、系列店がお互いの商圏を食い合うようになるなど成長余地が限られつつありました。さらに全国では家電量販店が出店攻勢を続け、両陣営の成長率には雲泥の差が生じていたのです。
このまま松下の製品だけ売っていてはジリ貧になる、また、お客様は松下の商品だけが欲しいのではない、よい商品がほしいのだと、私は考え、恩のある松下電器でしたが、苦渋の決断で松下電気を脱退し、当時勢いのあるマツヤデンキのFCに加入しました。
第5章
マツヤデンキチェーンでの
躍進

緊急の大手術、遺書を準備
会社が大進撃を続けていく中、私はどこかしら体の不調を抱えていました。脳の機能がゴッソリと抜け落ちたような感覚です。ついには小学生の娘に尋ねられた算数の宿題の「11-7=?」という簡単な計算式すら解けず、尋常ではない異変にゾッとしました。
慌てて病院に駆け込むと、脳神経外科の先生に簡単なテストを促されました。机に五円玉や十円玉、消しゴムを並べ、ハンカチで隠した後に何があったか答えてほしいと。五円玉と十円玉——。次が、どうしても、いくら思い出そうとしても出てこないのです。
磁気共鳴画像装置(MRI)の診断で脳に腫瘍があり、緊急手術が必要で、下手すれば、妻や子供の名前も顔も思い出せなくなると告げられます。手術が絶対に成功するとも限らず、私はもしものことを考え、遺書を準備しました。
病室に社員がお見舞い来て、社員と握手を交わした時に、私は不覚にも「会社を頼むぞ」と涙を流していました。その異変に社員も察知し「社長がいなくても店を守るぞ!」と全員に発破をかけ、会社は最高売上を達成することになりました。
幸いに手術は成功し、また現場に復帰することができましたが、「一度は死んだ身」として、さらに仕事や人生の夢の達成に邁進することになりました。

米大統領の言葉に身震い
1992年、トイザらスが日本に初出店しました。この数週間前に来日したブッシュ米大統領が奈良県のトイザらス店頭で「この店はすべての米国小売業に道を開いた」と述べました。これを聞き、私は改正大店法の影響があらゆる小売業に及ぶと予見しました。
このころ関東ではヤマダ電機(現ヤマダホールディングス)とコジマが安売り合戦を繰り広げ、この波はいずれ四国にも押し寄せます。私が属するマツヤデンキは迎え撃つ準備はできているか、己が導き出した計算に身震いしました。関東では300坪(約1000平方メートル)規模の店が主流となる一方、マツヤデンキは最大でも150坪(約500平方メートル)。大型化の必要性をマツヤデンキ本部に何度も申し上げましたが、本格的な議論は加速しませんでした。
今後絶対に来る大店舗時代に備えるにはマツヤを脱退するしかないと私は考え、マツヤデンキのNo.1 FCという座を捨て、マツヤデンキを脱退し、新たな道を創ることを決意しました。

地銀から融資を断られる
全国の加盟会社中、売上高1位でマツヤデンキを脱する私の選択は無謀で無策だと受け止められました。数億円の資金が必要でしたが、香川が地盤のメインバンクは「1円も貸さぬ」と通告してきました。
先方は私が不正を働き、追い出されると思ったのでしょう。これまで支払日の見直し、返済遅れなど一切ありません。超が付く優等生のはずなのに、彼らの短い物差しでは経営者のビジョンを計れないのです。
高松市内のあらゆる金融機関を1カ月ですべて訪ねますが、どこも首を縦に振りません。倒産の2文字が頭に付きまとい、時間だけが過ぎていくあの悔しさは絶対に忘れません。
ある地銀役員は私の話を聞きながら居眠りし、別の地銀の常務には1年以上も無視されました。生命保険証書を握りしめながら迫ったこともあります。
第6章
ぜい変、
ケーズデンキと提携へ

ケーズに提携先を変更
私は熟慮を重ねた結果、ケーズデンキと提携する道を選びました。某経済誌が「マツヤデンキのFC手数料、8%に不満」と報じたように、誤解されたのが提携先を変えた理由です。たとえ手数料が高くても、そのビジネスモデルに永続性があるか、価値があり十分な収益が生み出せ続けるかが重要なのです。
当時のケーズデンキはマツヤデンキより規模が小さく、実は仕入れ条件は悪化しました。しかし、それでも売上高は2年で2倍超の80億円、利益は5割増の2億円と過去最高を更新しました。
大きな視点で両陣営を比較すると、メンバーが全国96社に拡大したマツヤデンキでは徐々に出店余地が限られ、互いを食い合うように競合していました。10年前は金のように輝いていたビジネスモデルは金属疲労を起こし、大型化の波に対応することなど事実上、不可能だったのです。
一方、300坪以上の店舗を基本とするケーズデンキは、中四国や九州などブロックごとに1社のメンバーを配置するため、10~20年後も成長余地が残されています。こうした視点に立てば、ケーズデンキ陣営への参画は必然の選択肢であります。

ヤマダが四国に初進出
ケーズデンキとして順調に店舗を増やし成長していく中、ついにケーズデンキ第1号店の香川・屋島店の目と鼻の先にヤマダデンキが開業し、壊滅的なダメージを受けました。3~4人のヤマダデンキ社員が我々の店舗で堂々と値付けを調べ、安売り攻勢をかけてくるのです。売上高は約4割減、7カ月連続の赤字、現金流出が止まりません。
真っ先に取った防衛策が経費削減です。全経費の決裁権を社長である私に集約し、いかなる理由でも事後決裁を許しません。100円の消しゴムでも、です。
販売でも反転攻勢に出ました。屋島店のトップセールスたちが自信を喪失し、敗因を我々内部に求めず、市場環境が悪いと外部に押し付けるようになりました。まずい状態に危機感を覚え、徳島店から優秀な人材を異動させました。
彼が水を得た魚のように売りまくり、周囲が自信を取り戻し始めます。そして彼はある意味ではライバルでもある同僚に、もっと成績が伸びるように売り方を指導していたのです。自らも目覚ましい結果を残し、周囲の人材を育て上げる姿勢に感激しました。
ヤマダデンキの出店は一時的に私たちを苦しめましたが、このことによって、会社の仕組みづくりや、利益を作る体質づくり、社員が社員を育てる社風づくりができることになりました。

全米No.1のベストバイと提携
2002年ごろ、過熱し続ける「YKK戦争」は、テレビが数量限定で50円で売られるなどバカげた領域に達します。超低価格のしわ寄せはメーカーにも飛び火。この勢いでヤマダデンキが一人勝ちとなれば、長期的に消費者が被る影響は語るまでもありません。そこで、米国の家電量販店大手、ベストバイとの提携を模索し始めました。
私は情報筋からベストバイ社長の中国訪問をつかみます。滞在先ホテルに朝駆けをかけると、なんと米ニューヨークにある社長個人宅にケーズホールディングスの加藤修一社長(当時)とともに招かれました。交渉が煮詰まりつつあるころ、独自に調べた家電業界の世界情勢地図を披露しました。当時、国内シェアが十数位の我々が、世界を見据えることに先方は驚きを隠せない様子でした。私はケーズデンキ陣営を「国内トップとなる」と断言。提携先とするよう進言しました。
構想から足がけ5年、07年に提携に至りました。しかし、ケーズデンキの加藤さんは国内メーカーを大切にする姿勢を崩しません。安すぎる商品の流通は最小限にと、ベストバイから「仕入れが少ない」小言を抑えつつ、仕入れたのはケーブルなど付属品が中心でしたが、ベストバイトの提携は業界にインパクトを与えました。
第7章
リタイヤ後の
第二の人生の始まり

第二の故郷ドイツへの恩返し
話は45年ほど前に遡ります。無銭旅行に旅立つ半年前の1964年(昭和39年)、東京五輪が開催されました。私はドイツ滞在中、小学校を見つけるたびに「日本を紹介したい」とアポなしで訪問しました。ほぼ門前払いですが、興味を持ってくれる先生もいます。持参した東京五輪のスライドを披露すると、子供たちは興味津々です。
少し話すだけではもったいないと、ドイツの子供に日本に絵を送ってほしいと頼み、日本の小学生にドイツに絵を送るよう日本に居る父親に手紙で依頼しました。すると数カ月後に日独両国の学校に絵が届き、小学生が交流するイベントとなりました。今思えば、これこそが私のライフワークである日独交流の原点だったのです。
自身のリタイヤに先駆け、社会貢献のための非営利株式会社を設立し、2000年からドイツ語スピーチコンテストを毎年開催しています。初回は参加者が少なく、幅広い勉強のためだと我が社の新入社員を強制参加させました。私がトイレから戻ると、義理で来ていた取引先の皆様の大半が会場にいない、なんて笑い話もありましたが、今ではドイツで日本語スピーチコンテストを日本大使館と共催できるようになりました。

大坂塾生は累計で1000社に
リタイヤ後に若手の経営者からの相談が相次ぎ、私が実践してきた考えや知識が後世に必要とされていることが分かり、経営塾として「大坂塾」を開講することになりました。ありがたいことに塾生は12年間で累計1000社に達しました。
塾生たちに伝えていることは、まずリーダーである経営者の理想像です。経営者は居心地の良い安住の地を離れ、次の経営ステージに挑戦する勇気を持たなければなりません。私はマツヤデンキ脱退など、厳しい選択を自らに課しました。しかし、昨日と同じいつもの仲間に囲まれたまま、10年後、こんなはずではなかったと嘆く方が少なくありません。
そしてどんなに勇ましく先陣を切っても、振り返ると誰もいなかったのでは困ります。そのバランス感覚がとても重要なのです。そういった経営コンサルタントでは分からない、実体験で培った経営の妙味を塾生たちには様々な視点から伝えていっています。